さてさて、岐阜での毎日では政治的な言動を控えております・・・が、もともと政経学部政治学科に所属していたこともあり、政治は興味分野のひとつではあります。
 小沢さんに決まった今回の民主党党首選。ぜひ、健全な国家経営のためにも政権交代可能な二大政党制に向けてのチャレンジを期待したいですねー。
 
 ボクが大学2年生のころ、ポスターがオシャレだというだけの理由で電話を掛けて訪問をさせていただいた加藤公一さんっていう議員さんがおります。それから折に触れて相手をしていただくんですが、バリバリの菅派。(最近知ったんですけれどもね、そんなことは)当時、ボクが加藤さんに教えてもらった政治の役割というのが、今回の党首選挙の中でも論じられた「最小不幸社会」という考え方だったんですねー。

 要するに「幸福」は価値観が多様化しているので国として対応しきれないが、「不幸」は、病気とか家がないとか仕事がない・・・とかある程度定義できるわけです。それで「不幸」を極限までなくし、それぞれがそれぞれなりの「幸福」を追求できる環境を整備することが、公の役割じゃないの?と語ってくださったわけです、そのときに。
 このハナシは、結構納得していて今でも、共感してるんですね。きっと、ぼくの行動の根底のひとつの価値観かもしれません。
 
 実は民主党のハナシはどうでもよくって(苦笑)、この「最小不幸社会」について
ちょっと思い出したから書いてみましたー。

▼最小不幸社会<民主党のWEBから>
私は、政治の目標は「最小不幸社会」の実現と考えています。国民の中には「不幸」に遭遇している人たちがいます。そして、人々が「不幸」になる原因はさまざまです。その原因を、政治の力、つまり「権力」で取り除けるものはできるだけ取り除き、「不幸」を最小化すること、それが政治の目標だと思います。
(続きは、以下で・・・)
なぜ「最大幸福」と言わないで「最小不幸」と言うかといえば、病気や貧困といった「不幸」の原因は相当程度「権力」の力で取り除くことができますが、「幸福」のかなりの部分は恋愛や美意識といった精神的なものに支えられており、「権力」が関与すべきでない分野の問題であると考えているからです。一部の人が無理に「幸福」を押しつけようとして「権力」を行使すると、そこには一種の強制や独裁が生まれます。政治「権力」は人の生死をも左右する強制力を伴うものだけに、その行使は人々の「不幸」の原因を最小化することを目標とすべきであり、美意識のような個人的選好に属する「価値」の実現を目標とすべきではないというのが、私の政治に対する基本的哲学です。

「最小不幸社会」というと何か弱々しいイメージを与えるかもしれません。しかし、私がみなさんにお伝えしたい考えはそういうものではありません。むしろ、多くの人々の「不幸」を最小化するためには、政治「権力」をつかうことを辞さない決意です。治安と防衛もそのひとつです。「最小不幸社会」の実現のためには、国民のみなさんを犯罪、侵略、テロから守ることは当然のことです。最低限の政府の責務と言えます。国民の生命と財産を守るためには、国家にとって適切な警察力と防衛力は欠かせません。

また「最小不幸社会」というと、福祉国家的な大きな政府を連想する人もいるかもしれません。しかしそれも正確ではありません。自立した個人には、規制が緩和された自由な経済市場や社会の中でその力を存分に発揮して頂きたいと思います。しかし、個人の責任ではない原因によって困難な状況に陥った人には、政治の力で手をさしのべるべきだと考えます。そうした観点から、たとえば、天災や犯罪に巻き込まれた被害者の救済などには積極的に取り組むべきだと思います。

失業問題は、単に経済問題であるだけでなく、人間の尊厳を失わせかねない大きな問題です。今日の中小企業・零細事業者のみなさんの困難な状態や失業者の困窮は、これまでの経済政策の失敗が大きな原因です。したがって、仕事の創造、雇用の維持、さらには困難と立ち向かい、新たな出発をめざして努力しているみなさんへの支援は、これからの政権の大きな責任だと考えています。

これらの課題に対処するために、政治家自らが責任をもって政策を企画・実行・検証(Plan-Do-Check)していくことが必要です。官僚組織に政策を丸投げすることなく、官僚組織と適切な関係を構築し、「政権」が責任をもって主体的に国を運営していくべきだと考えます。