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ころんだら、起きればよい。
鬼塚喜八郎「失敗の履歴書」

 はじめてのサラリーマン生活は戦後3年でつまずいた。私利私欲の経営者に愛想を尽かしたからだった。
 そしてある日、「もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかしと祈るべきだ」という言葉を聞いた。スポーツは健全なる心身を育成していく最良の方法だと知った。戦後の混乱期のその時、すさんだ青少年たちを早く立ち直らせるためにはスポーツが役に立つに違いない、そしてその普及こそが自分の務めだと感じた。
 そこで靴屋を始めようと思った。なぜ、靴屋だったのか。靴はあらゆるスポーツに欠かせないと思ったからだ。当時は、たいていのスポーツがズック靴か地下足袋で代用されていた時代だった。青少年が全力で打ち込み記録が伸びるようなシューズが必要だった。使命感に目覚めた。しかし、やみくもな思い込みだけだった。どんな靴がスポーツに合うのか分からない、まったくの素人だった。
 初めてつくったのは、バスケットポールシューズだった。ある高校の監督からの依頼だった。新しい仕事への挑戦に心がときめいた。仕事場にこもり、見よう見まねで、連日深夜まで作業をしてなんとかカタチにした。しかしそのシューズを監督に届けると、わらじのようだと床にたたきつけられた。練習場で球拾いしながら、選手の足を見ながら、選手ひとりひとりから意見や注文を聞きながら、改良を重ねた。しかし、グリップの悪さだけはどうにもならなかった。
 夏のある日、母親が夕飯にキュウリの酢の物を作ってくれた。その時、皿の中にあったタコの足の吸盤に目が止まった。この原理を靴底に応用すればいいかもしれないと思った。そして吸着版型のバスケットボールシューズが生まれた。しかしそのシューズは、グリップが効き過ぎて、ひっくり返る選手が続出した。吸盤のくぽみを浅くして、ようやく、急発進、急停車どちらも可能な鬼塚式ダイガーバスケットスューズが完成した。そのシューズを履いた高校のチームが優勝したのは、それから遠い日のことではなかった。
 品質に自信のあるシューズが生まれた。しかし、知名度がまったくなかった。販路もなかった。自ら行商に出た。地方を回った。旅館には泊まらず駅のベンチで寝た。ろくなものを食べていなかった。
 やがて肺結核にかかった。即刻入院を勧告された。当時はまだ治療薬がなかったが、なんともタイミングよく新薬が出て健康を取り戻した。体調がよくなると前向きになった。競技用のシューズの種類を増やしていった。しかしまた1年後、結核菌が見つかった。今度は死の宣告にも等しい診断を受けた。会社の4畳半の宿直室にふとんを敷き、闘病生活が始まった。喉まで結核菌に冒され声帯が破壊されて声が出なくなった。毎朝社員を病床に呼び、言いたい事を紙に書いて仕事を続けていった。死期が近づいていることを感じていた。するとまた新薬が開発された。熱が引き、声も出始めた。実に二度までも新薬に助けられる幸運に恵まれた。この時、スポーツシューズづくりにすべてを尽くそうと改めて強く決意した。
 次はマラソンシューズの開発に没頭した。走るとマメができて当然。マメを克服してこそ一流という時代だった。しかしマメができないシューズがあれば、もっといい記録がでるはずだと考えた。当時のトップランナーに「そんなシューズができたら逆立ちしてマラソンしてみせますよ」と言われた。
 さっそくマラソンに関する文献を貪り読んだ。欧米の研究書や日本の特許もくまなく調べた。しかしまだ科学的に研究されていない時代であり、答えはどこにも見つからなかった。
 ある日風呂場で何とはなしに自分の足をながめていて、はっと気がついた。人間のカラダのことは靴屋がいくら考えてもダメだ。肉体のことは医者がいちばんよく知っているにちがいないと大学の医学部の教授のもとへと走った。マメは火傷の現象と同じだということを知った。衝撃熱を冷やし、足の裏の炎症をいかにして軽くするかという具体的な課題を得た。そしてヒントは意外なところにころがっていた。タクシーに乗った時、エンジンが過熱して動かなくなってしまったのだ。運転手がラジエターに水を補給するのを忘れていたことが原因だった。その時、足も水で冷やせばよいと思った。
 さっそくこのアイデアで新しいシューズづくりに取りかかったが、結果は散々だった。シューズの底に水を入れると、足が重くなり、しかもふやけてしまう。水冷式がダメなら、空冷式だと方針を転換した。シューズの上部に目の粗い布を使い、前と横に穴をいっぱいあけて風通しをよくした。着地した時、熱い空気ば吐き出され、足が地面から離れると冷たい空気が流れ込むという空気入替え式構造のシューズができあがった。
 逆立ちしてマラソンをしてみせますよと言った選手に試してもらった。30キロではほとんど異常はない。42.195キロ完走しても、足の裏は少し赤くなった程度で、とうとうマメはできなかった。その選手は信じられないという表情でいつまでも自分の足をながめていた。
 何かを始めたらトコトンやらなければ気がすまなかった。ムズカシイものから始めれば、あとは何でもできるが口癖だった。だますより、だまされるほうがいい。人に愚直の見本と言われてきた。面白みがなのは性分と居直ってきた。なんでも食べ、どこでもよく寝て、くよくよしなかった。まっ正直に生きてきた。走りに走りつづけてきた89年だった。不器用な人だった。最後まで頑固な靴屋の親父だった。周囲を幸せにして初めて自分も幸せになれる。会社を家族的運命共同体と呼んだ。その家族の父が、2007年9月29日、突然、この世から消えた。
 鬼塚喜八郎は、毎年新入社員を前にして、古代から近代へと引き継がれたスポーツマン精神の5か条を、いつも高らかに読み上げていた。
(第1条)スポーツマンは、常にルールを守り、仲間に対して不信な行動をしない。
(第2条)スポーツマンは、礼儀を重んじ、フェアプレーの精神に徹し、いかなる相手もあなどらず、たじろがず、威張らず、不正を憎み、正々堂々と尋常に勝負する。
(第3条)スポーツマンは、絶えず自己のベストを尽くし、最後まで戦う。
(第4条)スポーツマンは、チームの中の一員として時には犠牲的精神を発揮し、チームが最高の勝利を得るために戦わねばならない。そこに信頼する良き友を得る。
(第5条)スポーツマンは、常に健康に留意し、絶えず練習の体験を積み重ね、人間能力の限界を拡大し、いついかなる時でもタイミング良く全力を発揮する習慣を養うことが必要である。
 戦後の混乱期、スポーツの意味することが、これからの生活、社会、ビジネスなどあらゆる場面に必要になると感じた鬼塚喜八郎。人間の価値基準や行動基準が変わり、人々が穏やかな気持ちで過ごすことが困難になりつつある昨今、ここで定義されているスポーツマンは、確かに、現代を生きるすべての人の道標となると思う。
 そして、ここに新たな条項をひとつ、加えたい。
(第6条)スポーツマンは、ころんだら、起きればよい。失敗しても成功するまでやればよい。